クボタと日本政府は、尼崎アスベスト被害の加害者責任を認めて謝罪し補償してください。
クボタアスベスト災禍は終わっていない
(すべてはここから、1,000名を越す犠牲者予測)
宝塚市 山内康民
私の父、孝次郎は1996年1月8日痛みに苦しみ、もだえながら帰らぬ人となりました。
人生、自分の父親(私の祖父)の年まで生きるのが目標というほど、体が弱かった孝次郎は幼くして父親を亡くし、貧しい生活で大変な苦労をしたのでしょう、非常に我慢強い人でした。
その父が亡くなる前の元旦に、「こんなに苦しかったら死んだ方がましや」と振りしぼる声で言いました。
臨終間際、懸命に病気と闘っている父に、妹が「もう頑張らんでええで」というほど家族にとって辛い最後でありました。
病名、悪性胸膜中皮腫、享年80歳。
2005年6月末、新聞報道でクボタ旧神崎工場近隣住民や従業員がアスベスト疾患により療養中、また亡くなられていることが公となりました。父親の死もこれだと直感しました。入院中、医師より「アスベストに関係していたことはありませんか」と聞かれたこと。職場がJRをはさむ向かい側に位置し、住居がクボタから600mの距離だったからです。
このころのクボタの説明は、まだよく分からないから調査するということでした。その年の12月にクボタ社長はアスベストを使っていた社会的、道義的責任を謝罪し、弔慰金、見舞金制度を一歩進める考えがあると発言しました。当時、犠牲者に弔慰金、見舞金の支払いはすでに実施されていました。
翌、2006年4月に「救済金」制度が発足いたしました。以降、申請者のうち、クボタが認める248名(2013年3月末現在)の方に「救済金」が支払われています。
私はクボタの加害責任を認めていない「救済金」制度で終わらせるのではなく、責任を認め、謝罪をするのが筋と考えます。
そういった気持ちから、2007年5月に(株)クボタと国に対し提訴しました。裁判をして本当に良かったと思います。クボタは加害責任を否定してきたからです。「工場からアスベストを飛散させていない」、「飛散していたとしても被害を及ぼすようなものではなかった」と言い放ったのです。私は裁判当初からクボタアスベスト禍は公害史の一ページに残さなければいけないと再三発言して参りました。クボタに「加害責任を認めた訳ではなく、あくまで社会的、道義的責任でもって支払ったのです」と言わせないためです。
かつて社会問題を取り上げ続けた毎日放送ラジオの番組「たね蒔きジャーナル」でも水野晶子アナが「声をあげなかったら無かったことにされる」と言われた通りです。
最近、クボタは被害者団体との話し合いにも社長が出て来ないとも聞きます。2005年当時に比べマスコミの取り上げが少なくなり、「被害者の声に真摯に耳を傾けなければ」という状況から、強気に出てもよい条件になったと判断したのでしょう。
クボタはあくまでも「救済金」制度でこれ以上の提訴をさせない方針で、裁判では徹底して加害責任否定の主張をしております。
認められた被害者は殆ど中皮腫患者です。この2倍の肺がん被害者が闇に葬られており、おそらく犠牲者は1000名を越すと推定されるまで増え続けています。アスベスト禍での犠牲が無駄死とならないよう、裁判勝利は最低条件、再発防止の第一歩です。
2012年2月、イタリアのアスベストセメント管製造工場のアスベスト災禍は、経営者2名が禁固16年の刑を言い渡され、さらに2013年6月の高裁では禁錮18年が言い渡されました。国が違うとはいえ、責任の取らせ方が余りにも差があります。
クボタアスベスト裁判は、現在大阪高裁で審理中です。2012年8月7日の地裁判決ではクボタの加害者責任は認めたものの、わずか300mの狭い範囲でした。しかも、1940年にはアスベスト工場の実態調査を行い、危険性を把握していたにもかかわらずアスベスト使用を推進した国の責任は不問にされました。
控訴審では、裁判所が国民のいのちと健康を尊重する公平かつ公正な判決を下され、クボタの加害者責任と国の管理者責任が認められるように強く要望します。